「なるほどね……。ニンゲン、か……。……武者さん」
「ふぁい……」
「まず、ライオンどころか、私の知る範囲じゃ、ニンゲンを食べる種族はいないわ。安心してちょうだい」
「ふあい……」
半ば放心しながらも、私は頷いた。
ライオン……浦井先生は、真剣な顔で切り出す。
「武者さんの話では、武者さんのようなニンゲンという種族しか、言葉を話すことができないそうなんだけど……。ここでは、純粋な動物以外は、共通の言葉……例えば日本語を、しゃべれるわ。武者さんが言うこの学園の特徴は、ただひとつを除いて、全部当たってる。”ニンゲンばかりが在籍している”ということを除いてね」
動物がしゃべる……?
「あ、あと、井戸もないと思うの……。私が来るより以前は、もしかしたら、あったかもしれない。それでも、私は、この学園に井戸があったなんて知らないわ……」
あの井戸が、ない……?
「嘘みたいな話だけど、武者さんの服装や事情からして、武者さんの話は真実ね……。そう思うわ。ちゃんと、スカーフにはうちの校章のバッジがあったし……。あれ、かなり特殊な加工がされていて、年度ごとにもちょっとずつ変わるから、偽造や譲渡はまず不可能なのよね」
先生は、白衣のポケットから携帯電話を取り出した。何か操作しながら、ため息をつく。
「ただ……、ね? 私、”ニンゲン”なんて、武者さんの口から聞いて、初めて知ったの……。今も、インターネットで調べてみたんだけど、そんな種族はいないみたいで……」
「え……?」
信じられない言葉を聞いて、私は咄嗟に、机に置いていた自分の携帯電話を手に取った。インターネットに繋ぐと、いつものようなスタート画面が表示される。
”人間”で、検索をかけてみる。
ヒットしたのは、莫大な数……。
私は、ウェブ辞書の”人間”のページを先生に見せた。
「……この字は、何て読むの?」
「”にんげん”……。”じんるい”……。”ひと”……」
「”にん”、”じん”、”ひと”……? 初めてよ、こんな漢字……」
「習うの、小学一年生ですよ……。日常的にもよく使います……」
「……うん。はっきりわかったわ。すぐにネットをやめて、ケータイを使わないで」
先生の言葉には、有無を言わせない強さがあった。私は、先生に従い、携帯電話を机の上に戻す。
先生は、真剣な表情だった。鋭い眼光。人間でなくライオンだけど、わかる。
先生は、言った。
「あなたは、違う世界からこの世界に来たのよ。そして、あなたが持っているその携帯電話は、なぜだかはわからないけれど、あなたの世界と繋がっているんだわ」
違う世界……?
先生は、自分の携帯電話を私に手渡す。受け取り、画面を見れば、ネットに繋がっていた。検索エンジンの検索結果が表示されている。
検索バーに入っているのは、”ニンゲン”。そして、”ニンゲンの検索結果”……。
……おかしい。
人間を指していると思われるページが、一ページ目にない。さらに、ヒットした件数が三桁止まりという少なさ……。しかも、”もしかして:ニンジン”とまで出ている。
全てが日本語なのに、”人間”が、ない。不気味すぎて、思わず身震いをする。
”人”という字が、存在しない……?
そういえば……。
「ニンジンって、オレンジの野菜のことですよね?」
「ええ……」
「ニンジンって、漢字で”人”が”参る”って書いて、”人参”なんです!」
「そうなの? でも、ニンジンは、カタカナで使われるのが一般的よ……。ほら、”ニンジン”で検索してみて……」
先生の言う通りだった。
”ニンジン 漢字”で調べると、”ニンジンに漢字はあるのですか?”という質問サイトに行き着く。
なのに、誰も”人参”を書いていない。
“ニンジンに漢字はありません。カタカナ表記が一般です。”
この回答がベストアンサーに選ばれている。
下を見ていく。
“回答ありがとうございました!ニンジンって漢字がないんですね。あってもよさそうですが。
ベストアンサーは、一番早く答えてくださった方にしました。皆さんありがとうございました。”
“ニンジンに漢字はありませんよ~”
“回答ではないのですが、ニンジンに漢字ってあるんですか?私も気になる!”
“仁仁……とか?”
……そうだ。
「先生! この”仁”という字なんですけど……! この部首、”にんべん”って言って、”人”という漢字から来てるんです!」
「にんべん……? それは、”いべん”って呼ばれているわ。カタカナの”イ”から……」
にんべんもないのか……!
じゃあ、じゃあ……。
「先生、”人気”ってわかります?」
「任期? その職に就いている期間のこと?」
「じ、じゃあ、人気! ”人気のない~”とか言いません?」
「ひとけ……? 聞いたことないわ……」
「じゃあ……、人情とか、人相とか!」
「刃傷……。刃物で傷つけること? にんそうは、聞いたことないわ……」
「えーとえーと……! 人望とか! 個人的とか! 人見知りとか……!」
「じんぼう……? こじんてき……? ひとみしり……?」
「人望というのは、その相手に寄せる期待とか信頼だとかいったもので……。個人的というのは、”他の者はともかく自分は~”といった感じでして。人見知りというのは、あまり親しくない者に対して警戒するというか、距離を置くことで……」
”人”を使わず、なんとか説明する。しかし、先生は、ちんぷんかんぷんといった様子だ。
「そうね……。”者”って漢字はあるわ。”考える”の下が、”5″みたいなのじゃなくて、日付とかの”日”ってのの……。……個者的とは言うわね。者見知りっていうのもあるわ。……うん、者望とか言う言う! 者気、者気、者情、者相……」
聞いている限りじゃ、よくわからない。
とりあえず、まだ持っている先生の携帯電話を勝手に操作させてもらい、”こじゃてき”と入れようとする。
”こじ”まで入力し、予測変換に出てきたのは、”個者的”、”小洒落”……。
”小洒落”は、わかる。
”個者的”は…………。……こんな言葉、知らない。
検索をかける。
“個者的:こじゃてき
個者にかかわるさま。”
“個者:こじゃ
①社会を構成するための一匹の動物。
②公的でない場においての一匹の動物。”
……どうやら、ここでは、”人”というものは、動物としてもそうだが、言葉としても本当に存在しないらしい。
私の知っている”人”を表す言葉は、全て”者”で構成され、”人”を指すわけではなく、限定しない動物を指しているようだ。
「……武者さんの知っている動物は、ニンゲン以外服を着ないんだっけ?」
「はい……。着る時も、あります。ペット……あ、ペットってわかりますか?」
「うん。愛玩動物のことよね?」
「はい……。ペットをかわいくさせるために着せたり、単に寒さ対策のためだとか……。サーカスだと、みんな着てますけど……、それでも、動物が自分で着たり脱いだりは、基本できません。……動物って、オウムとかキュウカンチョウくらいしか、言葉をしゃべれない気がしますし……」
「ライオン、いるのよね。しゃべるライオンはいないの?」
「しゃべるっていうか……。”鳴き声”ですかね。ライオンは、がおー! ……って……」
「そうなの……」
ようやく、少しずつ理解してきたかもしれない。
これは、私がみている夢。
と、思うと行き詰まるので、これを現実と仮定しよう。
私は、井戸に落ちた。それは、確実。今は制服も洗濯してもらって消えてしまったが、井戸に落ちた証拠はたくさんある。
そして、あの井戸は、異世界への入り口だったのか。
二時間ほどの空白の時間があった末、私は、この”人間が存在しない世界”の空気を吸っている。
ただし、人間は存在しないが、代わりに、私が見てきた世界ではしゃべることすらできない動物が、日本語を話している。人間と、意思疎通が可能である。
さらに、今いるこの学園の名前も、私の入学した学園の名前も、同じ。コイーヌ学園。特徴さえ、”井戸がない”、”人間がいない”ということを除けば、ぴったり合っていた。
この学園は、昨年度まで男子校。もちろん、ハイレベルであり、入学したいと願う者も少なくはない。しかし、何せハイレベルであるため、大勢の入学志望者がふるいにかけられる。こちらでも、合格した女子は、十名にも満たないそうな。
私は、この風景を知っている。なのに、知らない。
ここは、完全なる異世界ではない。これを物語として考えると、魔王と勇者の世界のようなハイファンタジーへの区分はされない。
知っている現実と、そうでない非現実が調和している。
これを、単なる”異世界”より的確に言うのなら……。
「パラレルワールド……」
ifの世界だろう。
まず、先生と問題なく意思の疎通ができる時点で、私の慣れ親しんできたものと同じ日本語は、確実に存在する。
携帯電話も、私が見てきたそれと変わりはない。それどころか、先生のこの携帯電話の通信会社も製造会社も、私の世界でお馴染み……。
共通する部分が多い。……いや、人間が存在しないことと、動物の扱い以外は、私の世界と同じなのではないだろうか。
異世界に変わりはない。それでも、これは、どちらかと言えばパラレルワールドの類だろう。
「……どうすれば、元の世界に帰れるんでしょう」
半ば諦めた口調で、ぽつりと呟く。
先生も、お手上げっぽく答えた。
「よく言うわよね……。異世界に来た時、そこの空気をあまり吸っちゃいけないと……。そこの食べ物を食べたり、飲み物を飲んだら、帰れなくなると……」
うう……。人間は、一日三食も食べる生き物なのに……。体の半分以上は水なのに……。
「とにかく、武者さんは、ここの学生である。それは、間違いない。……だから、授業を受けてみない?」
え?
「このコイーヌ学園も武者さんの本当のコイーヌ学園も、授業内容は、きっと同じなんじゃないかしら。なら、受けないと、どんどん遅れていっちゃうわ。知っているとは思うけど、ここは、本当にレベルが高いのよ。成績が悪いと、強制的に退学のような形になることもある」
……確かに、このままここにいて延々と考えていても、埒が明かない。
時計を見れば、十時半過ぎ。いつからこの世界に来たかは知らないが、最初に時間を見た時から、もう一時間は経っていた。
私は、別に天才になりたいわけではない。ほぼ紅一点の環境に来たかったのだ。
どのような志であれ、せっかく手にしたこの環境。”帰ったら退学になっていました”にはなりたくない。
でも、今日初めてクラスを知る。そのため、どこに行けばいいのかわからない。そもそも、私にクラスがあるだろうか?
「授業受けれるんですか?」
「うん、話してみるわ。一応制服に着替えて。まだ絶対湿っているけど……。学生ってことは証明しなければならないし。もちろん、ここから出る前に、ドライヤーである程度は乾かすわね。……ああ、そうそう。ケータイは、なるべく使っちゃだめよ」
「え?」
「武者さんのケータイは、武者さんの世界に繋がる唯一の通信機……。無闇に使って、バッテリーを浪費させるのは、得策とは言えないわ」
確かに、私の携帯電話は、なぜか”人間”が検索できる。この世界に人間はいないのに、ちゃんとした人間の情報が出てくる。
ここは、私がいた世界ではない。浦井先生の携帯電話の方が普通だろう。
ということは……、この携帯電話で、私の世界と連絡が取れる……?
「電源を切るのが一番だとは思うけど……。でも、もし電源を切って、また電源を入れたら、繋がらなくなるかもしれない……。とにかく、なるべくケータイのバッテリーを消費させることは控えてほしいの」
私は、頷いて、エコモードにした。
バッテリーは、87%……。