「………………あれ…………………………」
私は、大空を見ている。青い空に、流れている雲。風もあまりなく、雲の動きはゆっくりと穏やかだ。
呆然と空を視界に映していると、ふと体中に痛みが走った。痛みは、もともと体にあったようだ。私の意識が覚醒するのを見計らって、ようやく悲鳴を上げ出したかのかもしれない。頭から足まで、全身が痛い。
ここは…………?
頭痛のする頭に鞭を打ち、考える。
私は…………、そうだ。井戸に落ちたのだ。
でも、私は、大の字で寝ている。ここは、井戸の中じゃない。井戸の中に、こんなスペースがあるはずがない。水の感覚もないし。
空が見えているし、土のにおいもする。そもそも寝転がっているここは、やけに硬く弾力もなく、ベッドではないようだ。どこかの部屋でも、病院でもなさそう。
なら…………?
「……っ!」
一つの可能性を考えつき、私は、ばっと起き上がった。視界に飛び込んできた白い校舎に駆け寄り、そのまま壁に軽く体当たりしてみる。ぶつかった。
足元を見てみる。校舎の影に重なる、私の影。私が動くと、影も動いた。
ほっと胸をなで下ろす。死んで、幽霊になったわけじゃないようだ。
でも、なら、なんで井戸や病院のような場所にいない? なんで、変わらず校舎の裏にいる?
ふと、手をずっと握りしめていることに気づき、両手を見る。
左手には、井戸につかまろうとした時に崩れた、コケの生えた破片がある。自力で井戸から這い上がって、力尽きて寝ていたのだろうか。
――――少し考えてみたが、そんな記憶は全くない。
それに、仮に井戸から這い上がってきたとして、なぜ今までこのような破片を、後生大事にぎゅっと握りしめていたのか? これは、最初につかんだ破片でなく、這い上がってきた時につかんだ、新しい破片なのか。
一方、右手には、携帯電話。……片手で携帯電話を握りながら、井戸を這い上がることはできない。
そういえば、左肩には、変わらずかばんがある。もし私が井戸に落ちて、井戸を登らなくてはならなくなったら、携帯電話は必ずかばんにしまうだろう。制服にあるポケットに入れていては、また携帯電話を落としてしまうかもしれない。片手で持っておくなんて、言語道断だ。井戸の中に階段があるわけでもないだろうから、必ず両手両足を使って井戸を脱出するはず。私は、何かの特訓や縛りでもなく、携帯電話を片手に持ったまま、井戸を脱出しない。
しかし、だとしたらかばんも不自然だ。なぜ肩にかけている。いや、なぜ左肩にかけている。
もともとこのかばんは、肩にかけるスクールバッグだ。形としては、“ボストンバッグ”というのだろうか。当然、右か左のどちらかの肩にかけて使うわけだが、持ち手の部分を両肩にかけると、リュックのようにも背負える。私は、あまり見た目が好きではないので、進んではしないが……。井戸を登るとしたら、両手も自由に使えた方がいい。いわば、緊急事態なのに、なぜ私は、リュックのようにかばんを背負っていない?
本当に、井戸の中には階段があり、そこから上がってくることができたのか? いや、それなら、井戸の破片は持っていなくてもいいだろう。自力でよじ登ってきて、最後に井戸の破片を左手につかみ取り脱出、かばんを左肩にかけ、助けを呼ぼうと携帯電話を取り出した……?
いや、待て待て。携帯電話があるんだったら。壊れていないんだったら。なぜ、井戸の中から助けを呼ばなかった? まさか井戸の中が圏外だったということは、ないだろう? いや、深ければ、井戸の中は圏外になるのか……?
井戸に落ちてからの記憶が全くない。私はいったい、何をして、井戸の中から脱出したのか……。
私は、右手の携帯電話を見る。
着信を知らせるランプが点滅している。
確認してみると、非通知から着信が一件入っていた。井戸の中でないため参考にならないかもしれないが、今、圏外ではない。
ちなみに、この携帯電話は完全防水。衝撃にも強い型だ。念のため適当に操作してみるが、壊れてはいない様子。目立った外傷も特にない。少しだけ、汚れている。
携帯電話の上部に表示された時間によると、もう九時をとっくに回っていた。今頃、新入生は、体育館で話を聞いたり、クラスを知らされたりしているのだろう。
しかし、自分も体育館に行こうとは思わなかった。
着信履歴をもう一度見る。非通知からの着信が入った時間は、本日07:28……。呼び出し時間は、10秒……。
井戸に落ちる時に聞こえた着信音は、これだろう。着信も、今日は、この非通知からしか入っていない。
この相手は、誰なんだろう? そして、一時間以上もの空白の時間は……?
私は、井戸のかけらは捨て、顔を上げた。井戸の方を見る。井戸がなかった。
覚え違いかと右を見る。ない。
左を見る。……ない。
「……なんで?」
校舎から少し離れ、周囲をもう一度見回す。
絶対、落ちる前歩いていた景色と同じだ。校舎の裏側。山が見える。2メートルほどの鉄柵がついており、出入り口には簡素な鍵がつけられている。
井戸、私が落ちた衝撃で埋まった? いや、そんなこと絶対ない。そもそも、井戸の周囲だけ、アスファルトになっていなかった。土で、泥で……、だから、私は、足を取られたのだ。
なのに、この地面は、アスファルト一色じゃないか。不自然なところもない。柵の向こうの山に行かなければ、土を踏みしめることもない……。
私は、慌てて携帯電話を見直す。年月日は、私が今日だと思っているものと同じ。タイムスリップなどではない……はず。
携帯電話をしまい、かばんから手鏡を出す。覚悟を決めて、自分の顔を鏡に映した。
髪やメイクはぼろぼろになってしまったが、私だ。自分でない誰かになったわけでもない……。
安心したが、新品の制服の汚れ具合を見直して、かわいそうな状態であることを自覚する。私は、ため息をついて、辺りを見回した。井戸に落ちる前と何ら変わりなく、人気がない。
次に、自分をもう一度見直す。髪や服に染み込んでいる汚い水。肌が露出している部分には擦り傷があり、血が滲んでいる。全体的に泥も……。
こんな場所に寝転がって、夢をみていたわけでもないだろう。そもそも、一時間以上も地べたに寝ていて、誰も私を起こすなり何なりしないわけがない。仮にも、ここの制服は着ているのだし……。
あるいは、これが夢? 体の節々は痛いし、頬をつねっても痛い。しかし、夢だとしたら、今の私は……。
井戸の中で……あるいは、助け出されて病院にいたとして。意識不明の危ない状態になっていたら…………。
「っ……」
どうしよう。どうするべきなの? 私は、ちゃんと生きている。心臓だって動いている。でも、現実にいるという証明はできない。
もしかしたら、学園に来たというのも夢かもしれない。これは、全部夢なのかも……。…………ああ、わからない!
「大丈夫……。まず、夢とは考えないで……」
声に出して自分に言い聞かせる。
そう。夢と考え始めると、気が狂いそうだ。
私は、トラブルがあって、登校初日に遅刻した。うん、そう。そういうこと。
携帯電話の待ち受けに表示された時刻は、09:23。もうそろそろ九時半になる。今日、新一年生は、体育館で学園長先生や先輩などの話を聞き、クラス発表をすると知らされている。何分程度やるのかは、わからない。
まだやっているにしろ、この汚い身なりで飛び込む勇気はない。
今日は一旦帰ってしまおうかとも考えたが、制服以外の服は持っていない。制服を着ているということは、コイーヌ学園の看板を背負っているのだ。こんな時間に、こんな格好で、公共交通機関を使って帰れるわけがない。私一人の失態で、学園に泥を塗ってしまう。
恥ずかしいのは山々だが、先生に言うべきだろう……。新しくなった校舎だし、運動部用にシャワー室でもないだろうか……。
私は、意を決して、歩き出した。校門前の昇降口へ向かう。
校門も昇降口も、来た時同様に開いていた。入ろうとして、自分の足が汚いことに気づく。
コイーヌ学園は、上靴は不要だ。外靴のまま校舎内に入れる。しかし、できたばかりの綺麗な校舎なのだ。いくら外靴でよくても、この泥だらけの靴で入って、いいだろうか? ……申し訳ない気がする。せめて、少しだけでも靴の泥を落とさねば。
では、まず、職員室を探そう。職員室って、大抵一階にないだろうか? 今まで通ってきたところでは、必ず一階の隅っこにあったけれど……。
とにかく、学生用でない、来客用の玄関を探そう。そこからなら、職員室も近いはず。さっきの校舎裏へのルートでは、特に入り口らしいものは見当たらなかった。逆方向かもしれない。
私は、足を踏み出した。
「あらあら! どうしたの?」
歩いていると、後ろから声をかけられた。女の人の声。
この時間に、女子学生がこんな場所にいるとは考えにくい。なら、先生。
よかった。職員室に行って、大勢の先生の前で恥をかかずに済んだ。それに、女の先生なのも助かった……。
私は、振り返った。
「大丈夫? 転んだのかしら?」
「………………」
「ああ、だめよ、そんな汚い手で目をごしごしこすったら。保健室にいらっしゃい。こっちよ」
やばい。私、頭を強くぶつけたらしい。
この人が、ライオンに見える。たてがみのない、メスの……。